『 サウダージ・ド・ブラジル vol.1 ~サンパウロ篇~』

グワルーリョス空港にたどりついたのは、成田を飛び立っておよそ36時間後だった。ゲートを通りぬけると出迎えの群集が僕らをとり囲んでくるように思えた。
この旅の前に色々イヤなことを聞かされていた。強盗や殺人がニューヨークの2倍だとか日本人は大金を所持していそうと思われ狙われやすいとか。四谷のブラジルバーのルシアーナは2度強盗に入られたことがあるといって何でそんなとこわざわざいくのというような顔をしていた。だからといって普通に家族や友人を出迎えにきていたブラジルの人達の視線をみな物取りのように思えてしまったのも情けない話である。
ツアーの発起人長谷川氏はやっと迎えの人を見つけたらしい。ブラジルでギターを作っている杉山さんとその奥さんであった。ロビーの外へ出るとそこは地球の反対側、ブラジルの大地が広がっていた。季節は春のはずだが熱い陽射しがまぶしい。サンパウロ市街のホテルまで杉山さんたちの車にお世話になった。空港からサンパウロの街をつなぐ巨大なハイウェイ”RODOVIA AYRTON SENNA”セナの路である。
僕は思わず目頭が熱くなった。というのもこの旅のもう一つの理由-激突死したF1ドライバーアイルトン・セナの墓に花をたむけたかったからだ。片道4車線。杉山さんの車もかなりとばすがそれ以上にほかの車がブットンデいた。さすがはセナの国。窓からふきこむ熱い風に鼓動が高鳴る。
それと風景だ!。道路の端の至る所にバラック小屋が立ち並び日本でいえば終戦直後の写真で見たような風景だ。タイムスリップしたような風景に僕の今まで生きた世界の狭さを痛感していた。市街に近づくとさすがに南米第一の商業都市サンパウロのビル群が立ち並んでいる。といっても東京のビル群に比べるとひどく汚い。どれも築30年以上は経っていそうな建物でちょっとした地震でもくれば一発だ。杉山さんの話によるとブラジルは地震がほとんどないとのことだ。だが絶対安全なところなどない。たまに何百年に一度の大地震がくるとニュースで見たような瓦礫の山ができるはずだと要らぬ想像をした。

ホテルバロンルーはガウヴォンブエノ通りのすぐそばだった。このホテルもいわくつきで数年前強盗がはいりその時はオーナーが強盗犯を射殺したらしいのだが、その数週間後強盗の仲間の報復でオーナーが射殺されたというあまり聞きたくない話だった。ホテルは結構きれいで貧乏人の僕にはもったいないくらいだった。
このあたりは東洋人街で日本の鳥居が立ち並ぶかと思えば香港のような派手な看板のぶら下がる落ちつくようで落ちつかないところであった。長旅の僕らは既に時間の感覚がまひしていたが幸いなことにフライト中は殆ど夜で存分に睡眠はとっていたため、時差ぼけでどうしょうもないということはなっかた。丁度昼時らしく荷物をほどいてから杉山さんの招待で食事をし、そのあと市内観光につれていってもらえるということであった。
この旅のきっかけはギターリストの長谷川氏がブラジル音楽をもっと知ってもらうために企画したツアーで、ギター職人の杉山さんがそれを快くうけいれてくれ現地の音楽学校を紹介してくれた、というものであった。参加したメンバーは総勢7名、みんなジャズやブラジル音楽が好きで音楽で何かをしたいと考えているやつらだった。
僕はその頃ブラジル音楽といってもジョビンとジョアン・ジルベルトくらいしか知らなっかた。もちろん彼らはブラジル音楽を語る上で欠くことはできないが、ボサノヴァの名曲も僕にとって聞きなれた響きとなっていた。まあ仕事も辞めたしブラジルいけば何か新鮮なものに出あえるかも・・というのが単純な動機であった。
次の日からレッスンが始まった。リベルダーデから地下鉄で南に下りプラサ・ダ・アルボレという駅から少し歩いた所にエスコーラ(音楽学校)があった。このあたりはどちらかというと下町的な雰囲気で3階建のこじんまりしたギター教室という感じであった。
僕らのレッスンを引きうけてくれたバルド・ゴンザーガ氏は小太りで少し頭のハゲたブラジル人で映画ツインズに出ていたダニー・デビードのような風貌であった。
レッスンの最初にプロフェソール(先生)は僕らのレベルを知りたいということでひとりづつ何か弾いてみてくれということだった。そこで僕はヂサフィナードをやった。おそらく発音もママならないインチキポルトガル語がブラジル人に通じたか分からないが、彼はとても気に入ってくれた。
そして僕らのレベルが大体把握できたところで今度はプロフェソールがビオロン(ギター)を弾き始めた。さっきまでの雰囲気とはうって代わり教室全体に響いたのは僕らの鳴らしたそれとはまったく違っていた。プロフェソールのふとっちょの指から奏でられたものは同じ6本の弦楽器でならしているのかとおもえないほど太く力づよく僕らの腹に響いた。それでいて甘いメロヂーは鼻腔から頭蓋に心地よく抜けていった。かつて山下和仁のギターを聞いたがその荘厳さとはまた違う。そのタッチは山下のそれとほぼ同格であろう。クラシックの優雅さ荘厳さを山下はギター1本で表現しえるのと同様にバルド・ゴンザーガはブラジルの音楽の全てをギター1本で表現していた。ショーロやサンバのリズムはそのめりはりのきいたきざみから。かとおもうとうっとりするような甘い旋律が繰り出される。まるでフルート、ビオロン、バンドリン、パンデイロのはいったショーロバンドの音を一人で出しているかに思えた。まさに音楽の国ブラジルを体感した。

レッスンは平日の午前もしくは午後ということだったので空いた時間はそれぞれ買物をしたり観光して周ったり、そして夜はいつもブラジルのミュージシャンのコンサートに出かけた。僕は他の人たちと違い音楽だけが目的というわけでもなっかたのでいろいろなところをみてまわりたかった。
午前のレッスンが終わりみんなでアウモッソ(昼食)をとった後、僕はかねてからアイルトン・セナの墓にいこうと思っていた。一人で行くのもなんだから他の人を誘ってみたがあいにく興味がないとのことで一人でいくことになった。
タクシーを拾い「CEMITERIO AYRTON SENNA」(セナの墓まで)と車に乗った。セナの墓はサンパウロの南西に位置するモルンビーという丘陵地帯にあった。タクシーの窓からは街の至る所にあるファベラ(貧民街)が目に飛び込んできた。もしこんな所で下ろされたらあっというまにみぐるみはがされてしまいそうなところがいくつもあった。
モルンビーは静かな公園といった感じだった。入り口を入るとただ芝生の丘が広がっていた。墓は何処にあるのかと思ってよく見ると整地された芝生の丘に幾つものプレートが埋まっているのに気付いた。墓というから十字架や石碑をイメージしていたが拍子抜けするくらいシンプルなものだった。丘の中心に1本の木がありそのすぐそばで何人かの人だかりあるのに気付いた。近づいてみるとそこだけ多くの花がさしむけられていた。その花の手入れをしているのか女のひとが何度もそこをいきかっていた。アイルトン・セナ・ダ・シルヴァは文字どおりモルンビーの丘の真ん中に眠っていた。そのセナの周りはすべて歴代大統領の墓である。そのプレートには[NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS.](神の愛がいつもそそがれることを!)ときざまれ、ブラジルの国旗と多くの花に包まれていた。
英雄の死はいつも突然である。1994/05/01一報は僕の弟からだった。その驚愕した声から僕は急いでテレビをつけた。テロップにセナ重態の文字が流れていた。F1のボディーは鉄より固いカーボンモノコックである。そのおかげでここ十年間自動車レース中での事故死は公道の死亡事故に比べると0に等しかった。僕はたぶん死ぬことはないだろうと思っていたが、その期待はうらぎられた。
セナやプロストがみせたすばらしバトルは僕の青春の一時代だった。それが終わったかのように思えた。音楽の道に挫折しこれからどういうふうに生きようかという疑問。その答えを探すため僕はこの旅にでた。アイルトン・セナは偉大な人であった。レースでの活躍もさることながら、無記名で恵まれない人たちに病院を建てたり、祖国のために多くのものを残した。
彼がこの美しい丘の真ん中に眠り、いたるところに彼の名の路やトンネルや橋がつくられるのは自然なことであった。祈りをささげその場を後にした。

ブラジルの夜はもうひとつの一日を始めるかのようだ。昼間より多くの店が軒先を広げる。
レッスンを終えた僕らは必ずといっていいほどライブにでかけた。ミルトン・ナシメント、ホベルト・メネスカル、マルシア・サウモーニ、バルド・ゴンザーガ。劇場やライブシアターからホテルのロビーやちいさなBARまでいたるところに音楽があって人々がもう一日分の人生を楽しんでるようだった。どれをとっても今まで聞いたことのない新鮮な感覚が僕の脳裏に焼き付けられた。
例えば何度もレコードで聞いたボサノヴァのテイクもゴンザーガやメネスカルが手がけると”生きた音”になる。目の前でくりだされる本物の音楽に勝るものはない。確かにボサノヴァという音楽は今のブラジルにはないのかもしれないがもっと原点である部分、そしてそれを誰もが受け継いでいるということを感じずにはいられなかった。それはやはりサンバのリズムである。MPBであれセルタネージャであれサンバという原点をもっている。
ライブを何軒もハシゴし最後のBARでショッピ(ビール)やガラナを飲みながら音楽について語り明かした。電車もバスもない時間になった時は夜のサンパウロの街を歩いてかえったが、横からこじきが出て来たりしたときは本気で全力疾走した。
確かに治安は悪いらしいが狙われるのはボーっとしているからそうなるのであって、毅然としていれば結構大丈夫である。杉山さんなどは酔っ払うとポケットからサイフを半分はみ出させてゆらゆら帰ってゆくのだが一度も強盗にあったことはないらしい。そんな経験をしていくうちにブラジルという国に対する思い過ごしが消えていった。
ギターのレッスンも大分進んだ。レッスンは楽譜は一応あるがほとんどはプロフェソールの弾く指運と音を聞いてその場でマスターするというものであった。ショーロやサンバの曲、「アーザ・ブランカ」というノルデスチの曲などいろいろやった。僕は覚えるのが遅くすぐひけるようにはならなっかたが自分なりに何かを得ようとした。レッスンの最終日にはいままでおぼえた曲を全員で弾き、それにプロフェソーロが7弦ギターであわせるというものだった。結局そこに遊びにきていたブラジル人もフルートやパンデイロで混ざり最後は大演奏になってギター講習会は終了した。レッスンの期間も短く、僕もあまり上手くできなかったが、充分にブラジル音楽を肌で感じることができた。そこで学んだゴンザーガの音色は今でも耳に焼き付いている。MUITO OBRIGADO!
ギターレッスンのツアーはここまででほとんどのメンバーは日本に帰ってしまった。その時から残った僕ら(3人)の本当のブラジル旅行が始まった。 

(つづく)

『 サウダージ・ド・ブラジル vol.2 ~リオデジャネイロ篇~』

イグアスの滝を観光した僕らはリオデジャネイロに向かっていた。この日リオ上空はあいにくの悪天候。エアバスは分厚い雲海を何層にも下降していった。ガレオン空港に着陸したときにはやはり”サンバドアヴィアオン(ジェット機のサンバ)”を口ずさんでいた。さっそくギーア(ガイド)が僕らを見つけてくれた。ホテルまではそんなに遠くはなかった。この日は雨。夕方のはずだが薄暗い。なにか湿った監獄にでもいるようなカビた臭いがたちこめる。僕らの目に真っ先に入ってきたリオの風景は、美しいプライア(ビーチ)ではなく建物の裏の切り立つ斜面に無数に群がるファベイラ(貧民街)だった。建物や壁にはおびただしい落書き。家も公園も鉄格子の塀が硬く張りめぐらされ、まるで動物園の檻のようだ!でもさすがに車内からコルコバードを見たときは感動した。ホテルエセルシオールコパカバーナはコパカバーナのビーチのほぼ真ん中にあった。フロントではもうまったく日本語は通じない。その日はちょうど僕ら3人に充分な広さの部屋が用意されてなかったらしく1台が簡易ベットの狭い仮部屋に通された。あとで思ったのだがずっとこの部屋の方がよかった。なぜなら窓からビーチやコルコバードが見れたからだ。この日はみんな疲れているらしくそそくさと寝てしまった。 
次の日は快晴。ギーア(ガイド)とリオ市内を観光することにした。最初にいったのが〝ヴィラ・ロボス”記念館だった。僕はあまりしらなかったのだが「ブラジル風バッハ」「ショーロス」などで有名なブラジルを代表する作曲家である。 次にコルコバードの丘にいった。ケーブルカーで標高710mの切り立った山に駆け上がると巨大なキリスト像が両手をひろげている。リオの街はおろかグアナバラ湾、ロドリゴデフレイタス湖、トレスリオス山塊まで見渡せる。マラカナンスタジアムは当時20万人収容できるサッカー場で、サッカー王国らしく馬鹿デカかった。昼食はフェイジョアーダの専門店で食事をした。リオでも有名店らしくチョット値段ははったがおいしかった。午後はカテドラルやサンバパレード大通りを見物した。トムジョビン(アントニオカルロスジョビン)の墓にもいった。こちらは石の十字架タイブの墓地だったが、墓は建てかえ中でジョビンの墓はむき出しの石棺だった。それからパオンデアスーカの奇岩。海面から394mそそり立つ花崗岩の一枚岩はリオのシンボルだ。”砂糖パン”の意だが僕にはラグビーボールが海に突き刺さっているように思えた。この頂からはコルコバードの丘をバックにしたリオの街が一望できた。眼下のボタフォゴ湾には白い帆のクルーザーが無数に浮かんでいた。暮れなずむコルコバードにシスターたちの一団が祈りを捧げていた。夜はよるでライブのハシゴをした。ジャズの店、サンバの店、ショーロの店、いろいろいった。余談だがブラジルにサッカーを伝えたのはポルトガル人ではなくドイツ人らしい。南部のドイツ系領主の宮廷の裏庭でのゲームが次第に広まったということだ。 
次の日もいい天気だった。ホテルの目の前は道路を隔ててコパカバーナのビーチだ。その日はビーチでのんびりすることにした。砂浜に足を踏み入れるとキュッキュと音がする。いわゆる鳴き砂だ!日本ではきれいな砂浜しか砂が鳴かないと思っていたが、どうもそうではないようだ。観光地なのでやはりゴミが多少は散在する。砂にケイ素が多く含まれるとそうなると聞いたことがあるがさだかではない。すると人懐こいブラジル人が「アミーゴ!」とばかりにサッカーボールを蹴り出してきた。僕はあまりサッカーなどしたことがない上に走りにくい砂浜に足をとられゼイゼイいいながらボールを追った。 コパカバーナを歩きアルポアドール岬をすぎると今度はイパネマビーチだ!イパネマの娘たちがワンサカいた!レブロン海岸の向こうにはドイズイルマウンズ山の美しいシルエットが見える。カリオーカ(リオっ子)はあまり海水浴はしないらしい。プライア(ビーチ)ではビーチバレーやサッカーをしたり肌を焼いたり。泳いだりスキューバをする時はもっと別のもっときれいなところにいくらしい。そうここはブラジルのアッパークラスが生活する場所。イパネマ地区にはブラジル中の富のかなりの部分が集中するという。リオにはブラジルの明と暗が混在する。プライアで休んでいるとタバコをくれと一人の浮浪者が話しかけてきた。僕はマルボーロを一本差し出した。すると彼はリオの海や街について、ブラジルの現在についていろいろ話しだした。最後に彼の持っているタバコを一本僕にくれて「これがブラジル流だ!」と立ち去っていった。 僕らはしばらくリオに滞在した。朝早く起きてプライアを散歩し、昼は街で買い物したり部屋で情報収集のためテレビをみたり、夜は再びライブにでかけていった。 
ヴィニシウスバーにジョニーアルフのライブを見に行った。前座で弾き語りをやっていた無名のミュージシャンが結構よかった。ジョアンばりのバチーダでクールにボサノヴァを奏でる。途中アルゼンチンからきたトランペット吹きが飛び入りさせてくれとヂサフィナードかなにかをやる時に言ってきた。前座のミュージシャンはキーは“E”だといったらトランペット吹きはやりにくそうな顔して・・・、実際にあまりできてなかった。途中から“F”に変えてもらって何とか形にはなったが、見てておもしろかった。(アルゼンチンのトランペット吹きはいたたまれなくなったのかジョニーアルフのライブ前に消えていた…)ジョニーアルフは相変わらず渋くきめていた。ライブの最後でたまたま遊びにきていた女性ミュージシャン3人組が2曲くらいボサノヴァをやったのだが、これが結構よかった。キターとパカッションで自ら伴奏して3声コーラスで歌うのだが、ハーモニーもリズムもビッタシでかなりイケていた。あとできいたらア・トレス(ソランジェ、シベーリ、レニーの3人)っていうグループだった。さすがはヴィニシウスバー、ボサノヴァに魅せられた世界中の人が集う一夜だった。 
リオに台風が来ているのかここ数日肌寒い。雨風が強くてあまり遠くにでかけられない。ホテルにこもってサッカーの試合とかみていた。部屋は中庭に面して外の景色がみえない。退屈なので近くの店に食料を買いにいくのだが、途中ブラジル人が僕らを見つけると“ジャポンジャポン”と指をさして笑う。日本でも最近は外人見て“ガイジンガイジン”っていわないだろ~とブラジル人って相当田舎ものだなあと思った。あといつもいくタバコ屋隣に椅子に座っているじいさんがいて僕ら日本人が前を通ると必ずぶつぶつとなにかうめきだすのだ。気味が悪い!夕食はホテルの横のイタリアンレストランによくいった。オリーブオイルがクサくてアンチョビのパスタなど食べてて気持ち悪くなった。日本ではエクストラバージンオリーブオイルや精製オリーブオイルなどの酸度のないオリーブオイルを使うが、外国だとファインバージンオリーブオイルやオーディナリーバージンオリーブオイルなど酸度の強いものも使うようだ。グルタミン酸がうま味である日本人にとってかなりつらく和食が恋しくなった。 
エルメート・パスコアルのライブがブラジル銀行のテアトロで行われた。はっきりいってこの頃エルメートをあまり理解できなかった。エレピで“ラウンドアバウトミッドナイト”をやっていたが「僕がやるとなんでもバイアォンになちゃうよ!」といってバリバリ弾きまくっていたのを覚えている。ブラジルは混血の国である。メスチーソ、ムラタとか地理で習ったが、エルメートやアコーディオン奏者のシヴーカなどはアルビノ(真っ白な肌や白い髪で色素が普通の人よりかなり少ない人)なのか風貌といいヤッテルことといいまさに仙人のようである。 
夜のパオンデアスーカに夜景を見に行った。夜のリオは非常に危険だ。だがここは大丈夫そうだった。なぜなら400m弱の断崖の上なので盗賊も上れないしまたケーブル乗り場には海軍の兵舎があるのでリオで一番安全なところという話だ。僕はこの頃カメラを少しかじっていてどうしてもリオの夜景を撮りたかった。三脚使ってのスローシャッターで約10秒じっと我慢。できた写真はすばらしかった!途中韓国人の団体に夜景をバックに写真をとってくれと言われシブシブ彼らのバカチョンのシャッターを押すが「残念だけど夜景はとれてないよ」とは言えず・・・。とくにコルコバードが黄金色にライトアップされていて美しかった。ジョビンのアルバム『潮流(TIDE)』のようなコルコバードを撮りたいと思っていたらちょうど運よくに雲がかかってきて絵も言われぬ神秘的な光景が撮れた。ここからリオの街をみるとものすごく明るい部分とほの暗い部分が対比されてよくわかる。明るい部分はアッパーミドルクラスの社交場。ほの暗い部分とはファベイラ(貧民街)だ。貧民街といってもなにももってないのではない。ファベイラの家をよく観察するとクーラーの室外機とかテレビアンテナがあるくらいだから電化製品はあるようだ。前に冗談でギーア(ガイド)にファベイラを案内してくれといったら「冗談じゃないヤツラは機関銃でもライフルでもなんでももっているんだぞ」と怒られた。彼らは麻薬取引や売春とかで資金を得ているらしい。貧しい者はアサオタンチ(盗賊)となり、さらに麻薬に手を染めればトラフィカンチ(マフィア)となって最悪の道をたどる。いわいるストリートチルドレンからが問題のようだ。ストリートチルドレンはまず教育など受けていない。生きていくために必要あらば他人の物を奪う。そして彼らはネズミのごとく増えていく。昼間ビーチで物売りの子供に出会った。キャンディを買ってくれと結構熱心だったのでこっちも根負けして1ダース5ヘアエス(約500円)も買ってしまった。食べてみるとハッカがきつくてあまりおいしいとはいえなかったがこの子はまだ健全だ。またある時バスから歩道を見ると子供が今にも死にそうに地下鉄からの通機構のうえでふるえていた。道行く人は誰も気にとめない。おそらくその子は死んでしまうのであろう。ブラジルの人と話すと日本は共産主義に近いといわれたことがあったが僕の感覚では基本的な教育くらいは公平に受けられたほうがいいのではと思う。どちらが正しいのかわからないがブラジルの現状はそんなである。美しい夜景をあとに僕らはパオンデアスーカを下りた。 
カエターノ・ヴェローゾのライブがリオ郊外のメトロポリタンホールで行われた。メトロポリタンホールはコパカバーナ地区から約30Km離れたバーハ・ダ・チジューカというリオの新興地(ジーコなど有名人が住む高級住宅街)へ向かうバスに乗り30分くらいのところにある巨大ショッピングモールの中にあった。入り口にはライフルをもって完全武装した警官が仁王のように立っていた。ブラジルのコンサートはテーブル席で飲み食いしながらショーを観賞するのがポピュラーだ。開演はPM9:00からが普通でサンパウロのトム・ブラジルホールでもそうだった。初っぱな「シェーガデサウダーデ」で始まりジャキス・モレレンバウムのチェロが泣けた。カエターノは男の色気たっぷりに時にはギターを片手で高く掲げ切々と歌いあげていった。スペイン語によるマンボの曲が多かったがカエターノは軽快にステップを踏みステージを隅から隅まで移動しながら粋な男っぷりを振りまいていた。このライブは後に『“粋な男”ライヴインリオ (FINA ESTAMPA AoVivo 1995)』として発売された。ライブが終了したのはPM11:00を過ぎていた。郊外型のショッピングモールなので観客は車で来て帰って行く。僕らはバス停でバスを待っていたがなかなか来ず。気がつくと薄暗い街灯の下に残されているのは僕らのみではないか。しかも目に付く人間は靴もはいてない浮浪者らしき人たちばかりだ。これはヤバイと思い慌ててタクシーを拾い乗り込んだ。このタクシーのおじさんがいい人でいろいろ道中をわかりやすく説明しながら運転してくれた。バーハ・ダ・チジューカでここがサッカー選手誰々の家だとかここがリオで最大のファベイラだとか。深夜リオの街でタクシーは赤信号で止まらないらしい。なぜなら止まっていると強盗に襲われるからだそうだ。車は汚かったがリーゾナブルで感じのいいタクシーだった。 
リオを発つ日が近づいた。最後にジャルジン・ボタニコ(植物園)に行くことにした。かつてトム・ジョビンが曲を作るときによく訪れた場所だ。パウ・フェロ(鉄の木)やパウ・ブラジル(ブラジルの木)など日本では見られない植物がみられた。コルコバードの丘を北東に見上げ帝王ヤシの並木道を歩くと何かインスピレーションを得たような気がした。空港へ向かう道からは一面に広がるファベイラが見えた。ファベイラはモーホ(丘)だけでなくどこにでも在るのだ。そんなリオに別れを告げ僕らはいよいよ音楽の都“バイーア”、ノルデスチ地方へと向かう。 

(つづく)

『 サウダージ・ド・ブラジル vol.3 ~バイア・ノルデスチ・帰途篇~』

バイア州サルバドールはブラジルで最初の都である。上空から見ると丘陵に白い雪が積もっているように見えた。「バイアの白い雪」という歌があるがここは寒冷地なのか?いやそうじゃない熱帯もいいとこサンバの都バイアである。福岡市を博多と呼ぶがごとくサルバドール市はバイアとよばれ親しまれる。空港に着くと一段と日差しが暑い。ホテルトロピカルダバイーアはバイアのセントロにあった。バイアの街にはセントロがある高台の上の街と、市場などがある海岸べりの下の街とがある。観光名所でもあるエレバドール(エレベータ)はその上の街と下の街とをつないでいた。古都バイアは教会のまちである。地中海風(バロック様式)の3百以上の教会が点在しすべてを巡礼するとなると結構なものだ。街をあるいているとバイアーナ(バイアの老女)が手首にミサンガをまきつけてくる。神様の使いらしいがいくらかお金をとられる。ともするとカポエイラを実演している若者がいてカメラを向けようものならこれもまたただじゃないようだ。日本に留学したことがある地元のセウマさんという人と出合った。ブラジルの気さくなおねえさんって感じの人だ。ボンフィン教会やメルカドモデロを案内してもらった。ミサンガのオリジナルはボンフィン教会のもので「ボンフィン・ダ・バイア」とあるのが本物らしい。音楽の都らしく楽器屋が多い。特にパーカッションの類はなんでもある。打楽器を手にとって鳴らすとすかさず店の人が合いの手をいれてくれて、あっという間にサンバの輪ができあがる。「うまいねえ!」とおだてられれば買わないわけにはいかず。アゴゴー、パンデイロ、タンボリン、アフォシエ、ビリンバウいろいろ買い込んでしまった。 ポールサイモンがわざわざニューヨークまでよんだといわれるオルドゥンはすごかった。打楽器のみ50名くらいのバッテリアで中庭みたいな広場でライブ(練習?)している。やっとのおもいで狭い入り口から広場に入ると厳重なボディチェックをうけた。するとそこには大地を揺るがすような振動、人々のうねりが目に飛びこんできた。観光客なのかみんな服も脱いで汗だくで踊っている。バツカーダは休むことなく繰り返されていつ終わるともわからない。僕は圧倒されてしまいおもわずその場に立ち尽くしていた。外にでて屋台で一休みしていると小さな女の子が僕の口もとに何かを近づけてきた。白いヨーグルト状?のものがスプーンにすくってあった。案内してくれたブラジル人はすかさずその女の子を威嚇して追い払った。ドラッグである!善しにつけ悪しきにつけ何でもありである。なににもまして人々のパワーがすごい!今日は祭りかと思うほど夜のバイアはにぎわっていた。平日でこうだから休日ましてやカーニバルとなると想像もつかない。夜もねないで騒ぐパワーはわれわれにはまねできない。あとで聞いた話だがバイアの土地にはビタミンのもとになる成分が多いとか聞いたことがある。そこからできた野菜や穀物や肉を食べていればこのパワーがもてるのだろうか?有名なリオのカーニバルは灰色の水曜日の朝まで丸4日だが、ここバイアのカーニバルは1週間続くというがなるほど理解できる。 案内してくれたブラジル人は故アイルトン・セナにそっくりで「セナが死んだ時にはみんなが僕のことをはやしたよ」と。さっそくリオで買ったNacionalのキャップをかぶらせて記念写真をとった。 ある朝起きたらなんとなく頭がボーットする。熱があるようだ。旅の疲れがたまっていたのか、食べ物にあたったのかだるい。なんとなくもよおしてトイレにいった。汚い話であるが“大”をしたつもりがなぜかすべて“小”と化していた。下痢である。が痛みはない。おそらく昨日屋台で飲んだサトウキビジュースにあたったようだ。僕は思わず笑ってしまった。こんな強烈なのは生まれて初めてである。この日はだるくてどこにもいける状態ではないので部屋で一日中寝ていることにした。一緒にいた友人が「カンデイアス」というバイアのことを歌った美しい曲を弾いていたのがとても印象的であった。ブラジルではお腹をこわすとココジュースを飲むといいといわれているようだ。ココジュースを飲んだ人ならわかると思うがポカリスエットに似ている。弱アルカリでお腹にいいのだろうか。ブラジルではビーチや街中でも売っててココをナタで割ってストローをさして飲む。丸ごと一個だと結構な量だがよく冷やしてあるとおいしいのですぐ飲み干せる。面白いのがビーチによって相場が違う。例えばイパネマビーチだと4ヘアエス、コパカバーナで3ヘアエス、バイアの海岸では2ヘアエス、レシーフェのビーチだと1ヘアウというぐあいだ。(当時1ドル≒1ヘアル) 海外で出会う邦人はみな立場をこえて親しくなれる。バイアに赴任していた大手商社の重役が僕らを家に招待してくれた。海沿いに立つ高級マンションでワンフロアをすべて所有していた。日本人が少ないところとはいえバイアにも日本企業が入り込んでいるようだ。ブラジル人の仕事ぶりってどんなだろうときいたら、どんなに夜通し騒いでも朝の会議にはかならず遅刻せずにくるらしい。運転手のブラジル人にバイア郊外を案内してもらった。スタンハンセン似の髭をたくわえたこわもてのおじさんで自家用ベンツでいろいろつれていってもらった。アバエテー湖バイアの上空からみた雪に見えたシロいものは真っ白い砂だった。何かの映画でみた巨大な廃墟ホテルのある海岸。僕は泳がなかったが仲間たちは海に入っていった。熱帯とはいえその日は肌寒かったので運転手のおじさんと顔を見合わせて笑っていた。イタポアンはバイア一帯の海岸をさす。大西洋の美しい海岸が広がっていた。頭のなかでは「イタプアンの午後」が流れる。 バイアは多くのミュージシャンを生み出している。ジョアン・ジルベルトを始め、カエターノ・ベローゾ、マリア・ベターニア、ガウ・コスタ、ジルベルト・ジル。日本でいうと有名人に九州の人が多いというのを思い出した。地方から都会へと強い信念をもってでていくというのはどこの世界でもかわらないのでは? 

僕らはさらにペルナンブーコ州レシーフェに向かった。地図でみると南米大陸が大西洋側に一番出っ張ったところだ。ここは空港から市街までがすごく近かった。ホテルプライア・オットンはレシーフェのビーチ沿いにあった。10kmもある長いビーチはリオのコパカバーナ、イパネマに勝るとも劣らない美しさだった。レシーフェは地方都市という感じで街も人々も落ち着いていた。ファベイラもやはりあるようだが、ここでは赤いレンガ焼きの屋根が秩序正しく整然と並ぶ。リオやサンパウロのような何か荒廃した感じがしない。日本人なんておそらくあまり見ないはずだが、指さして笑うようなことはない。貧しさは物質的なものでなく精神的なところからくるのではないか?静かなホテルからはすぐにビーチが眺められ沖にはジャンガーダと呼ばれる白い帆の舟が何艘もゆきかっていた。ブラジルに来てやっとゆったりした時間を感じられたような気がした。暮れなずむビーチを眺めていると頭の中で自然とボサノヴァがながれだす。そういえばコパカバーナやイパネマビーチではなぜかボサノヴァが巡らなかった。自動車の騒音や観光の人どおりでイメージが少し違うのだ。ギーア(ガイド)のバルキさんは大学で日本語を勉強していたらしく日本語が話せる。レシーフェ近郊を案内してもらった。陽気なブラジル人で運転しながらジャヴァンの「フロー・ジ・リシ(ユリの花)」を口ずさんだりしたが声が太くてメチャうまい。レシーフェのセントロには昔監獄だった建物が民芸品モールになっておりノルデスチの織物や装飾品などが安く売られていた。 オリンダは中世バロック様式の教会が立ち並ぶ世界遺産だ。昔ポルトガル総督がここを訪れてその美しさに思わず「Oh、LINDA!(美しい)」と叫んだことが其の名の由来だが、それは現地の女性を見てそう言ったのではというオチがついている。まさに地上の楽園である。昼はこの地域ではチェーン店舗を持つシュハスカリーヤでシュハスコを食べた。ブラジルにきて何度かシュハスコを食べたがここのは安くてしかも美味しかった。イグアスやリオでは20~30ヘアエス(約2、3千円)したがそれと同レベルのもの確か10ヘアエスでたらふく食べられた。日本でも1000円バイキングってのがあったがそのレベルより全然上だ。やはり肉の国であることが大きな違いか。あと食後に出てきたコーヒーがこれまた美味しかった。ブラジルにきてコーヒーは何度となく頂いたが、ここのは格別だった。なんともいえず香りが高貴でコクがあってまろやかで飲んだ後スッキリするのだ。なんて名前の店だか覚えていないが再びレシーフェを訪れたときはぜひ行きたい。 夜はライブを案内してもらったがこのガイドのバルキさん実にファンキーですごかった。ノルデスチの音楽ということでゴンザギーニャ風のアコーディオンのバンドを見に行った。編成が面白くアコーディオン、ベース、トライアングルというメンバーでトライアングルの人はホントにそれだけやっていた。ノルデスチの音楽といっても多種多様である。バイアォン、フォッフォー、シャシャード、フレーボ、ココ、シランダ、マラカトゥとブラジル音楽がボサノヴァとサンバだけかと思ったら大間違いでる。音楽が始まるとみんな踊る踊る!音楽が鳴る→体が揺れる→踊る、これは非常に自然な流れである。ナイスバディな娘もおじいさんもふとっちょおばさんも関係なく踊る。ガイドのバルキさんなんぞは僕らのことなど忘れて手当たりしだいの貴婦人に声をかけ踊っているではないか。みんな音楽を心から楽しんでいる。音楽を探求しにブラジルまで来たその答えがようやく見つかったような気がした。夜も更けバルキさんのオンボロワーゲンでホテルに送ってもらったのだが夜の海岸の風が実に気持ちいい。掻いた汗をさらりと乾かす。日本でいうと若葉をゆらす5月くらいのさわやかな風か。こんな気持ちのいい夜だったら一晩のうちにすばらしい曲が書けるだろう。ブラジルの音楽がすばらしいのはこの夜のおかげかもしれない。タイヤが止まるとエンジンも止まってしまうオンボロワーゲンは静かにホテルのエントランス前に到着した。 僕らはここレシーフェにしばらく滞在した。リゾートと地方商業都市を併せ持ったこの街は僕にとって一番親しめたのかもしれない。昼は目の前のビーチで体を焼き旅の疲れを癒した。カラッとした気候なので少し暑いと感じれば椰子の木陰に入るだけでちょうど良かった。ココジュースで乾いたのどを潤した。 ある時レストランでファイジョアーダを食べていた。この手のものはブラジルに来て結構食べたのでこの頃正直飽きていた。相当おいしければ全部食べるがそれ程のだとゼラチン質の肉が気持ち悪くて食べられない。しょうがなく残して仲間と話をしていたらいつのまにかテーブル横に子供が立っていた。僕らが残した残飯を指差し「これもらえるか?」ときいてきた。僕はなにげに「Sin(いいよ)」といったら子供は握手を求めてきた。それに応じた次の瞬間、ガバッと残飯をワシ掴みにビニール袋に入れ店を出て行った。孤児であった。気がついた店員はシッシと追っ払って迷惑そうに汚れたテーブルクロスを洗浄し始めた。リオでもバイアでもそうだったが孤児はここレシーフェにもいる。これはブラジル全般の問題なのだ。 レシーフェを発つ日、朝早く目が覚めた。他の二人はまだ寝ている。部屋の窓から外をみると大西洋の沖から朝日が昇ってくる。僕は思わずカメラを設定しシャッターをきった。ほぼ赤道直下の太陽は真東から昇ってくる。ブラジルの朝焼けだ。もう日本を離れどれくらい経ったのだろう。地球の反対側でも同じ朝が来る。だが北半球と南半球ではいろいろなことが逆である。たとえばコリオリの力で渦巻が逆なのはご存知だろうか?。その影響があるのかわからないがトイレットペーパーの入れ方が逆である。ブラジルでは下廻りである。それから指を折っての数え方が小指から立てて1,2,3と数え逆である。キンチョウ蚊取り線香の渦が逆巻かどうかは定かではない・・・。 

ノルデスチの旅を終えた僕らは再びサンパウロへ戻ってきた。ホテルバロンルーのスタッフとも久々に再会した。僕は無精ひげに焼けた顔で“すっかりブラジレイロだね”とからかわれた。杉山さんたちとも再会し道中の出来事をいろいろ話した。ここはブラジルでの故郷のようだ。ジャーナリストのヒロセさん等と共に久々サンパウロのライブスポットへ出かけた。クアルテットエンシーを見にいったがあいにく公演はキャンセルとなっていたのでセルタネージャのライブにいった。PM11:00頃見終わってから小腹が空いたので軽くレストランで食事した。僕ら“ブラジレイロ”はステーキを塩のみで2枚かるく平らげた。でもやはり肉、席を立つ時ずしりと小腹が重たい。その後はパゴーチバンドのライブに行ったが、仲間の一人は飛び入りで大いに受けていた。 イピランガ公園でジョアン・ボスコがショーをやるので見に行った。ブラジルでは公園などで無料コンサートをよくやる。市がギャラ等を負担するのかわからないが日本ではない大盤振る舞いである。編成はギター、ベース、パーカションの3人であった。僕等は芝生に寝そべって観賞した。完璧主義のジョアン・ボスコは始める前ベースとのチューニングを念入りに行っていた。「リーニャジパッシ」で堰を切った様に演奏が始まると楽器はひとつの完璧なリズムセッションと化して僕等の体を揺さぶった。「コイザフェイタ」「パペウヂマルシェ」とヒット曲が続きアンコールで「酔っ払いと綱渡り芸人」を歌ってショーは終了した。無料で2時間フルステージとはかなり見ごたえがあった。 ホテルに戻ると帰りの飛行機を再確認し僕は日本への帰り支度をした。僕だけ他の二人より一日早い帰途フライトとなっていた。杉山さんのご好意で空港まで送ってくれるということで僕はお言葉に甘えた。車で再びセナの路を走りアエロポルト(空港)
へと向かった。ブラジルでの滞在の日々が頭を過ぎった。ゲートで杉山さんに篤くお礼を述べ別れを告げた。これからまた長いフライトだ。日本までフロリダ経由でタップリ36時間は飛行機の中だ!さようならブラジル、オブリガード!飛行機は漆黒の闇へ飛び立った。 
<1995年当時の筆者のブラジル旅行体験をもとに出筆>
 
(完)